戦後80年を経てようやく語られ始めた、元兵士による家族への虐待。「なぜ父親は私を殴ったのか」という疑問を抱える方も多いのではないでしょうか。2025年8月26日放送のクローズアップ現代では、この深刻な問題の実態が明らかになりました。本記事では、前田正治教授の専門的見解をもとに、戦争が家族に与えた影響と心の傷の連鎖について詳しく解説します。この記事を読むことで、長年の疑問に対する答えと、同じ悩みを抱える人たちへの理解が深まるでしょう。
クローズアップ現代で明らかになった元兵士による虐待の実態
2025年8月26日に放送されたNHK「クローズアップ現代」は、戦後80年を経てようやく語られ始めた深刻な問題を取り上げました。それは、太平洋戦争から帰還した元兵士による家族への虐待という、長い間社会の陰に隠れていた現実でした。
番組では、元兵士の父親から暴力などの虐待を受けた人々が、今その体験を語り始めている様子が詳細に報告されました。東京、大阪など全国に元兵士の家族の会が発足し、虐待の証言が相次いでいるのです。ある女性は「ちゃぶ台ぶっ倒して、子供の布団を剥いで、『この野郎』ってこう投げつけたりとか」と当時の父親の様子を証言しています。
さらに深刻なのは、元兵士の親から子、そしてその子から孫へと虐待の連鎖が起きているケースです。ある女性の証言によれば、祖父は「火の影の間から殺した中国人が見える」として、パニックになって家族を殴っていたといいます。この女性は「元凶ってじゃあどれだって。祖父の戦争」と語り、戦争の影響が世代を超えて続いている現実を浮き彫りにしました。
この問題は決して珍しいことではありません。俳優のアーノルド・シュワルツェネッガーさんや歌手の武田鉄矢さんも、戦争体験を持つ父親からの虐待について公に語っています。長い沈黙の時を経て、ようやく重い口を開き始めた家族たちの証言から、戦争の真の被害の深刻さが明らかになってきているのです。
前田正治教授が解説する戦争トラウマと虐待の関係性
番組に出演した福島県立医科大学医学部主任教授の前田正治さんは、戦争が兵士たちの心にもたらす影響について詳しい専門家です。前田教授自身も元兵士の子どもであり、父親から暴力を受けた経験を持っています。この個人的な体験と専門知識を基に、戦争トラウマと家庭内虐待の関連性を解説しました。
前田教授によれば、元兵士たちは戦場で様々なトラウマを抱えて帰国しました。仲間が沢山亡くなっていく中で生き残ってしまった罪悪感、住民に対する加害的な行動、自分だけが生き残った負い目など、複層的なストレスが蓄積されていたのです。
「頭や心や体はもう戦争のまま」という状態が続き、平和な家庭に戻ってもうまく適応できない元兵士たち。そのギャップの中で感情が爆発した時、その矛先が子どもたちに向けられてしまうケースが多発していました。前田教授は「子供からすると、父親のストーリーっていうのはよく分からない」と指摘し、多くの場合、親は戦争中の辛い体験を語らないため、子どもは理不尽な暴力の理由を理解できずに苦しんでいたと説明しています。
この構造的な問題は、子ども自身の自己肯定感を著しく損なうものでした。「なんで自分がこんなこと受けるのか分からない」状況が続くうちに、子どもは「自分が悪い子だからそうされたんじゃないか」と思い込んでしまい、それがまたトラウマとなって心に刻まれていったのです。
心の傷の連鎖:親から子、そして孫世代への深刻な影響
番組では、実際に元兵士による虐待を受けた人々の証言が詳しく紹介されました。藤岡美千代さん(66歳)の証言は特に衝撃的でした。父親の古本石松さんは海軍に招集され、千島列島の航空基地に配属されていましたが、戦後の行動は常軌を逸していました。
「子供をこう踏みつけようとするんです。逃げるじゃないですか、転がって。そうするとその体を掴み上げて、もうあの父親の頭の上から床にバーンって投げられる」という藤岡さんの証言は、戦争神経症の症状を如実に表しています。石松さんは台風のような雨音に震えながら「相手が殺しに来る」と叫んだり、家族を壁際に立たせて「みんなで死のう」と言いながらプロパンガスの栓をひねったりする異常行動を繰り返していました。
新藤智子さん(70歳)のケースでは、元兵士の父親による虐待の影響が50年以上続いています。父親の松島信一さんは朝鮮半島北部への従軍とシベリア抑留を経験し、帰国後は酒を飲むと豹変して家族に暴力を振るいました。智子さんの2つ年上の姉・光江さんは、いつも父親の前に割って入って代わりに殴られ、後に統合失調症と診断され入退院を繰り返すようになりました。
智子さん自身も今でも時々起き上がれなくなる症状に悩まされており、「これは3ヶ月。もう寝てる状態ですね。もう頭が動かなくなってしまうんです」と語っています。幼い時の恐怖や父への緊張感がフラッシュバックとして蘇り、日常生活に深刻な支障をきたしているのです。
このように、戦争の心の傷は世代を超えて継承され、元兵士だけでなくその家族、さらには孫世代にまで影響を与え続けています。長年DV被害者のカウンセリングをしてきた公認心理士の信田さよ子さんは、終戦から数十年が過ぎた頃、父親から受けた虐待の記憶に苦しむ子供世代からの相談が相次いでいたと証言しています。
日本の元兵士への支援制度とその限界
戦時中に精神疾患を発症した日本兵の実態は、長い間隠蔽されてきました。現存する記録によれば、1942年から45年の間、陸軍で精神病やその他神経病になった人が66万人以上に上ったとされています。これは軍部が「皇軍には戦争神経症がいない」と豪語していた実態とは大きくかけ離れた数字です。
戦後、心に傷を負った元兵士は国の支援対象となりましたが、その規模は極めて限定的でした。療養の給付を受けていた人は、最も多い年でも1100人ほどに過ぎませんでした。この給付を受けるには、都道府県から軍隊での任務との因果関係を認定してもらう必要がありましたが、元兵士の症状が公務によるものと見なされないことも少なくありませんでした。
当時の引揚援護庁次長の田邊繁雄氏は1953年の国会答弁で「過去の戦争の例から申しますと、大多数はやはり先天的のものと思われます。専門家のご意見を伺いますと、どうも公務と考えられない例が多い」と発言しており、国の対応の消極的な姿勢が窺えます。
さらに深刻だったのは、精神疾患を抱える人への社会的偏見でした。戦争から生き残って精神を病んだとなると「一家の恥」とされ、故郷に帰れずに入院したまま戦後を過ごす元兵士も多くいました。このような環境下で、元兵士たちは戦後社会で孤立を深めていき、家族内でのストレス発散として虐待が発生する土壌が形成されていったのです。
オーストラリアの取り組み:退役軍人と家族への包括的支援
日本とは対照的に、海外では元兵士とその家族への支援が充実している国があります。オーストラリアの事例は特に注目すべきものです。オーストラリアは約6万人をベトナム戦争に派兵し、帰還した多くの兵士が精神疾患を発症、自殺や家庭内暴力が社会問題となりました。
この深刻な状況を受けて、オーストラリア政府は1982年にカウンセリングサービスを設立し、現在に至るまで保障や支援のあり方について議論を重ね、制度を整えてきました。現在では、退役軍人専門の支援機関「オープン・アームズ」が全国32箇所に拠点を設置し、精神科医、カウンセラー、ソーシャルワーカーなどの専門家が連携して治療・支援に当たっています。
特筆すべきは、本人だけでなくその家族も支援対象としていることです。学術調査により、PTSDを患う元兵士の子供はPTSDの発症リスクが高いことが分かっており、元軍人の親を持つ子供向けの専門書籍なども用意されています。これまでにベトナム戦争の従軍兵士の3割にあたる1万8000件以上のPTSDを認定し、保障を行っています。
支援を受けて回復したディオン・カウドレーさんは「苦しみを抱え込んで閉じこもるのではなく、助けを求めることが大事です。社会には退役軍人向けの支援が沢山あるのですから」と語り、社会全体で元兵士を支える体制の重要性を強調しています。
精神疾患への偏見払拭と「語れる社会」の必要性
前田正治教授は、今後日本が取り組むべき課題として、まず実態調査の重要性を挙げています。「戦後ま長い間もう専門家の間でも、この戦争の問題っていうのはタブーだった」と指摘し、精神科医の間でもほとんど語られなかったこの問題の実態把握が急務だとしています。
また、社会に求められる取り組みとして、前田教授は偏見の払拭を強調しています。これには大きく2つの側面があります。一つは精神的な病に関する偏見で、「それはその人が弱いからである」といった誤解を解くこと。もう一つは戦争に従事したことに対する偏見で、特に大義に疑問を持たれている戦争で従軍した兵士たちは、社会から受け入れられにくい状況があったことです。
「語れる雰囲気をコミュニティ、地域が作っていくってことが非常に重要」と前田教授は強調しています。偏見が強い間は、当事者は「もし語ったらどんな反応があるか分からない」という恐怖から沈黙を続けることになります。元兵士家族会の代表を務める黒井秋夫さんのような当事者が声を上げていることは大変重要で、このような動きがより広がっていくことが期待されます。
現在、戦後80年が経過し、厚生労働省も「因果関係の判断が難しいなどの課題がある。どのようなことができるか検討して参りたい」と回答していますが、前田教授は「まだ帰還兵の方も生きていらっしゃる、まだ今の時期に、きちんと調査を行うと。家族も含めて調査を行うってことは大事だと思う」と、時間的な緊急性を訴えています。
まとめ
クローズアップ現代で取り上げられた元兵士による虐待と心の傷の連鎖は、戦争の真の被害の深刻さを物語っています。前田正治教授の専門的な解説により、この問題が個人的な問題ではなく、戦争という国家的な体験がもたらした構造的な問題であることが明らかになりました。
戦争神経症と呼ばれた症状に苦しんだ元兵士たちは、十分な支援を受けることなく社会復帰を迫られ、その結果として家族に向けられた暴力が世代を超えて継承されています。オーストラリアの取り組みが示すように、元兵士とその家族への包括的な支援体制の構築は可能であり、日本でも今からでも取り組むべき課題です。
最も重要なのは、この問題を「終わった問題」ではなく、現在進行形の課題として認識することです。精神疾患への偏見を払拭し、当事者が語れる社会環境を整備することで、同様の悲劇が繰り返されることを防ぐことができるでしょう。戦後80年を経た今、私たち一人ひとりが戦争の真の代償と向き合い、心の傷を癒やすための社会作りに取り組む責任があるのです。
※ 本記事は、2025年8月26日放送のNHK「クローズアップ現代」を参照しています。
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