2025年7月16日放送のNHK「クローズアップ現代」で取り上げられたアメリカの知的基盤の危機は、私たちの想像を超える深刻な状況を浮き彫りにしています。トランプ政権によるハーバード大学をはじめとする研究機関への圧力強化により、世界の頭脳が流出し始め、日本を含む各国が優秀な研究者獲得競争に乗り出している現状をお伝えします。
トランプ政権がハーバード大学に1兆円助成金凍結を発表
トランプ政権は2025年4月、ハーバード大学に対する総額約90億ドル(約1兆3500億円)に及ぶ助成金や契約の見直しを発表しました。この衝撃的な決断の背景には、イスラエル・ガザ問題をめぐる学生の抗議活動に対する大学側の対応が不十分だったとする政権の判断があります。
政権側の要求を大学が拒否した結果、22億ドル(約3150億円)の複数年助成金が即座に凍結されました。さらに、5月には追加で4億5000万ドル(約660億円)の助成金打ち切りが発表されるなど、圧力は段階的にエスカレートしています。
マクマホン教育長官は声明で「ハーバード大は自由な探究よりも分裂をもたらす思想を優先し、学生を反ユダヤ主義的な差別から守れなかった」と主張しています。この措置により、認知症研究で世界的に知られるマーク・ワイスコフ教授の2億円以上の助成金も打ち切られ、重要な医療研究が存続の危機に陥っています。
ハーバード大学はマサチューセッツ州で4番目に大きな雇用主として1万8700人以上が働いており、助成金削減は地域経済に深刻な影響を与えると警告されています。
留学生受け入れ認定取り消しで滞在資格剥奪の危機
さらに深刻な事態として、2025年5月22日、トランプ政権はハーバード大学の留学生受け入れ資格の停止を通達しました。これにより、ハーバード大学は2025年度以降、新規留学生の受け入れが不可能となります。
現在在校している留学生についても、米滞在資格を維持するには他の大学に転出する必要があり、在籍する260人の日本人留学生や研究者にも直接的な影響が及んでいます。番組で紹介された大学院生は「明確な理由のない拘束が相次ぎ、私も恐怖を感じています。デリケートな話題についてSNSへの投稿を控えるなど、慎重に過ごしています」と不安な心境を語っています。
この措置により、全学生のおよそ3割を占める留学生たちの間に深刻な不安が広がっており、学問の自由と国際的な教育環境が根本から脅かされている状況です。アメリカの伝統的な価値である「学問の独立性」が政治的圧力により侵害されているという指摘も強まっています。
アメリカ研究者75%が国外移住を検討「頭脳流出」加速
番組で紹介された衝撃的な調査結果によると、ある科学雑誌がアメリカの研究者1600人を対象に行った調査で、アメリカから離れることを検討していると答えた割合が75%に達しています。この数字は、アメリカの知的基盤が根底から揺らいでいることを示しています。
実際にすでに人材流出は始まっています。ジョンズ・ホプキンス大学大学院生のベンジャミン・キリーンさんは、人工知能AIを使った音声操作手術用ロボットを開発し、国際的な学会で最優秀論文賞に輝く将来有望な研究者です。しかし、所属する大学では政府からの研究資金がすでに約1200億円以上打ち切られ、周囲でも実際にストップする研究が出る中、「今の米国は世界中の優秀な研究者にとって魅力的な環境ではありません」として、ドイツへの移住を決断しました。
こうした状況について、慶應義塾大学の渡辺靖教授は「アメリカが世界の学問をリードしてきたのは、学問の自由を大切にしてきたからです。その不可侵の部分にトランプ政権が手を突っ込んできている」と深刻な懸念を表明しています。
大学・研究機関への圧力が医療・気候変動研究を直撃
トランプ政権による助成金打ち切りの影響は、私たちの生活に直結する重要な研究分野に及んでいます。新型コロナウイルス、気候変動、公共飲料水、結核など、人類の健康と安全に関わる研究が軒並み資金を断たれています。
国立環境研究所の谷本浩志領域長は、NASAの衛星データを活用した温室効果ガス観測研究への影響について「にわかには信じがたいですね。そうしたデータが取れない失われるということは非常に大きく、(温暖化)対策にも影響してくる」と困惑を隠せません。
マーク・ワイスコフ教授の認知症研究プロジェクトでは、「他の資金源が見つからない場合、一部の研究者を解雇せざるを得なくなるでしょう。このままでは社会が健康対策や深刻な病気の予防法を失うことになります」という切実な状況が報告されています。
政権支持者の中には「重要性を証明できれば資金を得られるが、できないなら資金を得るべきではない」との声もありますが、基礎研究の重要性を短期的な成果で判断することの危険性が専門家から指摘されています。
東北大学が300億円投資で世界的研究者獲得競争に参戦
こうしたアメリカからの頭脳流出を受け、世界各国が優秀な研究者獲得に向けた積極的な動きを見せています。特に注目されるのが、日本の東北大学による戦略的な取り組みです。
東北大学は2025年6月、300億円を投じてトップレベルの研究者約500人を採用する計画を正式発表しました。国際卓越研究大学認定第1号として、国の「10兆円ファンド」から得た資金を活用し、論文の学術誌掲載など個々の業績をもとに研究者の報酬を決め、上限は設けないという画期的な取り組みです。
冨永悌二総長は「世界に伍して研究するには、『人に投資する』という考えを取り入れないと厳しい」と強調し、トランプ政権による科学予算削減で苦境に立たされている米国研究者の受け皿となることを明確に表明しています。
番組では、東北大学の研究者獲得会議の様子も紹介されました。候補に上がったアメリカの気候変動研究者について、須賀利雄教授は「もう世界のトップの研究者になりまして、今もうこの先生を知らない気候研究者は世界でもいないだろうという方です」と評価し、「アジアの他の有力大学からも声がかかっているようで、なるべく早く人事を進めたい」と積極的な姿勢を示しています。
海外からも注目が集まっており、カナダ最大の生命科学研究機関は33億円を拠出し、100人の若手研究者獲得を目指すカナダリーズプロジェクトを開始。中国も戦略的に研究者獲得を進めており、アメリカのシンクタンクは「あるノーベル賞受賞者は、助成金の凍結後、中国への移住を打診された」と分析しています。
渡辺靖教授が分析するアメリカ学問の自由への危機
現代アメリカ研究の第一人者である慶應義塾大学の渡辺靖教授は、今回の事態について深刻な分析を示しています。「留学生がインタビューされることをあそこまで警戒しているのは、自分の頃では考えられないことで衝撃を受けています」と、現地の異様な緊張感を指摘しています。
渡辺教授によると、トランプ大統領の狙いは支持基盤へのアピールにあります。「リベラルや多様性を叩くことによって、自分の支持基盤が喜ぶだろうというアピール材料として考えている。反エリート主義の考えを持つ支持者に対し、エリートと戦っている姿勢を示すことで支持者の結束を測ろうとしている」と分析しています。
特に懸念されるのは、アメリカの国力そのものへの影響です。「アメリカの強さは軍事力や経済力だけでなく、自由で開放的な制度を通して人材を世界中から集めるソフトパワーがあった。それがアメリカのイノベーションの源泉になってきた」と指摘し、ノーベル賞受賞者の3分の1がアメリカ以外の出身者で占められ、有力500社の約半分が外国出身者によって創業されているデータを示して、多様性の重要性を強調しています。
今後の展望について渡辺教授は「司法がトランプ政権の方針にストップをかけている部分があり、この傾向が続けばアメリカにとっても経済的な実害が及ぶので、どこかの時点でトランプ大統領も現実と向き合って妥協点を見出していくことを期待したい」と述べる一方、「トランプ大統領の方針を引き継ごうとしている若い政治家もどんどん台頭してきているので、続く可能性は十分にある」と長期的な影響への警戒も示しています。
まとめ:世界のパワーバランス変化と日本への影響
2025年7月現在も続くトランプ政権とハーバード大学の対立は、単なる政治的な争いを超えて、世界の知的生態系に根本的な変化をもたらしています。ハーバード大学は助成金凍結の差し止めを求めて法廷闘争に発展しており、学問の自由を巡る歴史的な戦いとなっています。
この状況が続けば、世界のパワーバランスに大きな影響を与える可能性があります。渡辺教授が指摘するように、冷戦時代にアメリカを追われた中国の科学者が中国に戻って宇宙開発の父となった例もあり、今回の頭脳流出が将来的に科学技術分野での勢力図を塗り替える可能性は十分にあります。
日本にとっては、言語の壁という課題があるものの、東北大学の積極的な取り組みが示すように、世界的な研究者獲得の好機ともなり得ます。ただし、「給与水準がアメリカの2分の1から3分の1で、担当業務量は2倍から3倍」という現実的な課題もあり、抜本的な制度改革の必要性も指摘されています。
世界的科学雑誌サイエンスを発行する学術団体のスディップ・パリクCEOは「今後4、5年で行うことが、次の100年に影響するでしょう。研究は過去の世代から受け継いできたもので、将来の世代に繋いでいく必要があります」と述べ、国際協力の重要性を強調しています。
私たちが今目撃しているのは、戦後の国際秩序を支えてきた自由で開放的な学問環境の根本的な変化です。この変化が人類の知的発展と社会の未来にどのような影響を与えるのか、引き続き注視していく必要があります。
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