「空気から糖をつくる」と言われても、すぐには信じられないかもしれません。2026年8月1日放送のテレビ東京系「ブレイクスルー」に登場した大阪大学の田畑裕さんは、二酸化炭素を原料に糖を合成するという前代未聞の研究に挑んでいます。この記事では、その仕組みと工程、農業革命と呼ばれる理由、そして実用化を阻む壁までを順に整理します。読み終える頃には、食料生産の「当たり前」が静かに揺らいでいるはずです。
空気から糖をつくるとは?田畑裕が挑む二酸化炭素からの合成
結論から言えば、これは「空気中の二酸化炭素を出発点にして、農作物を介さずに糖を化学的につくる」という研究です。挑んでいるのは、大阪大学大学院基礎工学研究科 附属太陽エネルギー化学研究センターの田畑裕・特任助教。番組によれば29歳の若き研究者です。
糖は、ブドウ糖や砂糖、デンプンまでを含む、生命に欠かせないエネルギー源です。通常はサトウキビやトウモロコシといった農作物から得られます。つまり糖をつくるには、広い土地と大量の水、そして何ヶ月という時間が必要でした。
田畑さんが狙うのは、その前提そのものを外すこと。番組でも「土地や水、時間を減らして、いわゆる化学合成でつくれるようにすることを目指している」と語っていました。農業の効率を上げるのではなく、農業に頼らない糖の調達ルートをもう一本つくる——これが研究の核心です。
二酸化炭素→ホルムアルデヒド→糖 わずか10分でできる合成工程
工程はシンプルです。まず空気中の二酸化炭素からホルムアルデヒドという物質をつくります。これが糖の原料になります。
次に、そのホルムアルデヒド水溶液に触媒を加え、ヒーターで温めながら混ぜます。番組の実験で使われていた触媒は水酸化カルシウムでした。最初は無色透明だった液体が7分ほどでクリーム色に変わり始め、およそ10分ではっきりとした黄色に色づきます。この色の変化が、糖が生成された合図です。
農作物なら数ヶ月かかる工程が、フラスコの中で10分。取材した作家の相場英雄さんが「時間の部分と環境負荷の部分、これ解決できますよね」と反応したのも当然でしょう。筆者が印象的だったのは、この劇的な変化が特別な巨大装置ではなく、研究室の実験台の上で起きていたことです。技術の到達点よりも、その「手触りの近さ」にこそ驚かされました。
ホルムアルデヒドを食べて大丈夫?糖の化学構造が示す答え
ここで多くの方が引っかかるのが、原料のホルムアルデヒドです。シックハウス症候群の原因物質としての印象が強く、番組でも佐々木明子アナウンサーが率直に「良くない物質のイメージがある」と質問していました。
これに対し田畑さんは、その場で糖の化学構造を書き始めます。示されたのは、糖という分子は、ホルムアルデヒドに相当する単位が数珠つなぎになった構造をしているという事実でした。私たちが普段口にしている糖も、化学構造の上ではその繋がりでできている、というわけです。
つまり原料の名前が怖いからといって、生成物が危険とは限りません。とはいえ田畑さんは安全性を軽く扱ってはおらず、口にしたときの懸念がないかは科学的に検証すべきことだと明言しています。そのうえで「科学的にOKだったときに、本当に人々の安心にとっていいのかはまた別問題」とし、最終的な選択は民主主義や政治の判断だと述べていました。技術者が自分の技術の限界線を自分で引いている——この誠実さは、記事にしておく価値があると感じます。
「甘党の微生物」を探せ 合成糖と相性のいい菌の見極め方
合成した糖は、そのままでは人間が食べられません。番組によれば、天然の糖と同じ成分も含まれる一方、そうでないものもかなり多い「混ざり物」の状態だからです。
そこで登場するのが微生物です。合成糖を微生物に与えて増やせば、それはタンパク質になります。そのタンパク質を家畜の飼料として活用する——これが田畑さんの描く道筋です。
ただし、どの微生物でもいいわけではありません。番組で示された2本の試験管は、片方が白く濁り、もう片方は透明のまま。濁りは微生物がよく増えた証拠で、透明な方はその糖を好まなかったことを意味します。田畑さんはこれを「甘党の微生物」を探す作業だと表現していました。
見極めには分析装置も使われます。グラフの山ひとつひとつが糖の種類を表し、給餌前をグレー、給餌後を緑で重ねると、小さくなった山=微生物が食べた糖が一目でわかる仕組みです。よく食べられる糖がわかれば、次はその糖が多くできるよう合成条件を調整する。化学と生物学を往復する、地道な作業の連続です。
光合成の数百倍 農業より速いことが土地問題を解く理由
なぜ「速さ」がそこまで重要なのでしょうか。田畑さんの説明は明快でした。農業も、10倍の土地を用意すれば10倍のスピードで進められる。しかし地球に残された陸地を考えれば、「トウモロコシを今の10倍つくる」は物理的に不可能だというのです。
だからこそ、一桁二桁ではなく10倍・100倍という桁の違うスピードに意味があります。速さは、そのまま土地の使用量を減らすことに直結するからです。
この主張には裏づけがあります。産業技術総合研究所などの発表によれば、糖の化学合成は光合成と比較して少なくとも数百倍と高速で、水や栄養塩もほとんど必要としません。農業による糖の大量生産には多くの水と栄養塩、そして大面積の土地が必要なため、プラネタリー・バウンダリー(地球の限界)の観点から持続可能性が懸念されてきたという問題意識が、この研究の出発点にあります。
足掛け10年の研究 ホルモース反応と非天然糖という系譜
実は、ホルムアルデヒドから糖をつくる反応自体は新発見ではありません。塩基性条件下でホルムアルデヒド水溶液を加熱すると糖を主成分とする混合物ができる「ホルモース反応」は古くから知られており、人工的な糖の合成経路として関心を集めた時期もありました。しかし塩基性条件ではカニッツァロ反応という副反応や生成した糖の酸化分解が同時に起こるため、収率の向上が原理的に見込めなかったのです。
この長年の壁を動かしたのが、2023年に発表された成果でした。田畑さんと中西周次教授らの研究グループは、産業技術総合研究所や豊田中央研究所との共同研究により、タングステン酸ナトリウムなどの金属オキソ酸塩が中性条件下で糖の合成触媒として機能することを見いだします。中性で合成できるようになったことで、生物が食べられる糖を高速につくる道が開けました。
さらに2024年には次の段階へ進みます。同グループは産業技術総合研究所やGreen Earth Institute株式会社との共同研究により、コリネ型細菌を用いて合成糖液のみを基質とした乳酸の発酵生産に成功。化学合成した糖を原料にバイオものづくりが行われた世界初の例とされています。
番組で語られた「足掛け10年」という言葉の重みは、この積み重ねを知って初めて実感できます。きっかけは、学部4年生のときに中西教授から届いた「面白い反応があります」という1通のメールでした。もともと文系志望で、塾の講師の勧めで理系に進んだという田畑さんの経歴を思えば、なんとも不思議な巡り合わせです。
実用化を阻む壁 コスト・再エネ・法規制と「前提を疑う」姿勢
とはいえ、明日から食卓に並ぶ話ではありません。壁は少なくとも三つあります。
一つ目はコストです。田畑さんは、従来品に近づけるための必要条件として、二酸化炭素から物をつくる際に必要なエネルギーを再生可能エネルギーで安く調達できるかを挙げています。これは技術開発の速度というより、社会全体がどう変わるかに左右される要素だという指摘は冷静です。
二つ目が法規制。番組では「これまでの法律は、化学的に合成したものを食べることを想定してつくられていない」と語られました。技術が育っても、規制上そもそも入れられないという事態が起こり得るわけです。実用化が見えた時点で関係各所との対話が必要になる、との認識も示されていました。
三つ目は社会の受容です。ただ、田畑さん自身は研究者であり続けたいわけではないと語ります。実現したいのは地球のあり方をより良くすることで、化学はそのための手段のひとつにすぎない、と。
番組の最後、「あなたにとってブレイクスルーとは」という問いへの答えは、「当たり前だと思っているような前提に、一つの亀裂を生じさせること」でした。人類の食料生産は農業に立脚してきた。その前提に立てば議論は収率向上に終始する。けれど「そもそも農業以外の手段で食料生産はできるのか」と疑ってみる——その一言に、この研究のすべてが凝縮されているように思います。
まとめ 空気から糖を合成する農業革命が示す未来
空気から糖をつくるという田畑裕さんの挑戦を、要点で振り返ります。
- 二酸化炭素からホルムアルデヒドを経て糖を合成。番組の実験では約10分で完成
- 原料への不安はあるが、糖はもともとホルムアルデヒド単位が連なった構造をしている
- 合成糖を「甘党の微生物」に与えてタンパク質にし、家畜の飼料として活用する構想
- 化学合成は光合成より格段に速く、土地・水の制約を大きく緩められる
- 課題は再生可能エネルギーのコスト、想定されていない法規制、そして社会の受け入れ
この研究の面白さは、食料危機への対策でありながら、同時に二酸化炭素の有効活用策でもあるという二重性にあります。減らすべき厄介者だったCO2が、食料の出発点になる。前提を疑うことでしか見えない景色が、確かにここにあります。
【追記】2026年8月8日放送の「ブレイクスルー」に田畑さんが再び登場し、同じ技術からプラスチックをつくる研究が紹介されました。詳しくは空気からプラスチックをつくる田畑裕さんの微生物をご覧ください。
※ 本記事は、2026年8月1日放送(テレビ東京系)の「ブレイクスルー」を参照しています。



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