2025年8月13日にBSテレ東で放送された「いまからサイエンス」では、国立感染症研究所昆虫医科学部部長の葛西真治博士が、驚くべき新たな脅威について語りました。それは、従来の殺虫剤が全く効かない「スーパー耐性蚊」の存在です。この小さな昆虫が、今後の日本の感染症対策に大きな影響を与える可能性があることをご存知でしょうか。
スーパー耐性蚊とは?葛西真治博士が発見した驚異の実態
葛西真治博士が2016年にベトナムで発見し、2022年に世界で初めて発表したスーパー耐性蚊は、まさに人類にとって新たな脅威と言えるでしょう。この蚊の最も恐ろしい特徴は、通常の蚊なら1の濃度で死ぬ殺虫剤に対して、なんと 1000倍の濃度でなければ死なない という驚異的な耐性を持っていることです。
従来の耐性蚊でも50倍程度の耐性しか持たなかったことを考えると、この1000倍という数字がいかに異常かがわかります。葛西博士の研究チームがベトナムで採取したネッタイシマカの幼虫を羽化させ、数千匹の蚊に一匹ずつ殺虫剤処理を行った結果、本来なら99%が死ぬはずの殺虫剤の量に対して、死亡率はわずか10%以下だったのです。
この耐性の秘密は、蚊の遺伝子の変異にあります。通常は1箇所の遺伝子変異で数十倍の抵抗性になるところ、スーパー耐性蚊では2箇所の遺伝子が変異していることが判明しました。さらに恐ろしいことに、ベトナムでの調査では数%から10数%という決して低くない頻度でこの遺伝子変異を持つ蚊が存在していることがわかっています。
いまからサイエンスで話題!殺虫剤が効かない蚊の生態メカニズム
番組で詳しく解説されたように、スーパー耐性蚊の耐性メカニズムは非常に複雑です。世界中で広く使われているピレスロイド系殺虫剤(蚊取り線香の主成分)は、蚊の神経にあるナトリウムチャネルという作用点に結合し、神経の異常興奮を起こして蚊を死に至らせます。
しかし、スーパー耐性蚊では二つの抵抗メカニズムが働いています。第一に、神経の作用点となるタンパク質の構造が変化し、殺虫剤が結合しにくくなっています。第二に、体内に入った殺虫剤を分解する解毒酵素の働きが異常に強化されているのです。
葛西博士によると、人間にとって安全性が高いピレスロイド系殺虫剤は1970年代から40年以上にわたって使用され続けてきました。この長期間の使用により、蚊は徐々に耐性を獲得し、ついにスーパー耐性蚊という「究極の進化」を遂げたと考えられます。
興味深いことに、日本に生息するヒトスジシマカに対しては、現在でもピレスロイド系殺虫剤は100%の効果を示します。ただし、耐性遺伝子の萌芽がわずかに確認されており、将来的には日本でも耐性蚊が出現する可能性を葛西博士は示唆しています。
日本へのスーパー耐性蚊侵入リスク「平均気温3度上昇で定着の危険性」
地球温暖化が進む中、日本へのスーパー耐性蚊侵入リスクは決して他人事ではありません。現在、デング熱の主要媒介蚊であるネッタイシマカは日本には生息していませんが、飛行機などを通じて頻繁に生きたまま日本に入り込んでいることが確認されています。
葛西博士の研究によると、ネッタイシマカが日本で越冬し定着するための条件は 1月の平均気温が10度を超えること です。現在、この条件を満たすのは九州南部の種子島や屋久島より南の地域に限られています。
しかし、最も注目すべきは東京の状況です。東京の1月平均気温があと3度上昇すれば、関東沿岸までネッタイシマカの分布域が拡大する可能性 があります。葛西博士は「年平均気温3度上昇は困難でも、最も寒い1月の平均気温が3度上がることは、それほど高いハードルではない」と警告しています。実際、過去40年間で東京の1月平均気温はそれに近い上昇を示しているのです。
さらに深刻な問題として、南米のブラジルやアルゼンチンでは、従来より低い気温でも生存できる 「温帯適応型ネッタイシマカ」 の存在が確認されています。論文では平均気温14度台の地域でも生息が報告されており、東京の年平均気温15-16度を考慮すると、この温帯適応型が日本に侵入すれば、現在の気温条件でも定着する可能性があります。
デング熱拡大の脅威と葛西真治博士が警告する感染症リスク
デング熱は世界で最も人を殺す生物である蚊が媒介する深刻な感染症です。世界保健機関のデータによると、デング熱の症例数はここ20年で約24倍に急増しており、スーパー耐性蚊の出現がこの傾向に拍車をかけることが懸念されています。
日本では2014年に160名以上の国内感染事例が発生しました。これは海外でデングウイルスに感染した人が日本で蚊に刺され、その蚊が他の人を刺すことで感染が拡大したケースでした。現在、日本には主にヒトスジシマカが生息しており、この蚊もデング熱を媒介する能力を持っています。
葛西博士によると、ヒトスジシマカはネッタイシマカほど人間の血を好まず、様々な動物から吸血するため、デング熱の媒介効率は比較的低いとされています。しかし、地球温暖化により、より媒介効率の高いネッタイシマカの分布域が北上していることも事実です。
現在、ヒトスジシマカの分布域は北海道以外の日本全域に及んでおり、温暖化とともに東北地方へとさらに拡大し続けています。葛西博士は「まさにもうちょっとで北海道に上陸しようという状況で、デング熱の国内流行の可能性エリアが拡大している」と警鐘を鳴らしています。
革新的な蚊対策法「ボルバキア細菌を使った対処法とは」
スーパー耐性蚊に対する従来の殺虫剤の限界が明らかになる中、世界各地で画期的な生物学的防除法が注目されています。その中核となるのが 「ボルバキア細菌」 を利用した革新的な対策法です。
ボルバキアは本来、ヒトスジシマカやショウジョウバエなどの腸内に生息する細菌ですが、これをネッタイシマカに人工的に感染させることで、二つの驚くべき効果が得られます。
第一の効果は個体数の削減です。 ボルバキアに感染したオスの蚊と、感染していないメスの蚊が交尾した場合、生まれた卵は孵化しないという生物学的特性があります。シンガポールでは、この原理を利用してボルバキアに感染したオスのみを工場で大量生産し、野外に放出する取り組みが行われています。メスを1匹でも混入させてしまうとこの効果が失われるため、極めて厳密な雌雄選別技術が必要とされます。
第二の効果はウイルス増殖の阻害です。 ボルバキアに感染したメスの蚊は、デングウイルスが体内に侵入しても、そのウイルスが増殖できなくなります。つまり、蚊の個体数は減らなくても、デング熱を媒介しない「無害な蚊」に変えることができるのです。
ブラジルのリオデジャネイロで実施された研究では、ボルバキア感染蚊を放出した地域において、ブラジル全体の平均と比較してデング熱患者数が継続的に低いレベルで維持されているという実証データが報告されています。
蚊を減らす実践的対策「研究で判明した効果的な防虫方法」
葛西博士の長年の研究から明らかになった、蚊に刺されにくくするための実践的な方法をご紹介します。これらの知識は、日常生活での蚊対策に直接活用できる貴重な情報です。
最重要要因は呼気中の二酸化炭素です。 私たちが吐く息に含まれる二酸化炭素濃度は、大気中の約100倍にも達します。蚊はこの濃度差を敏感に感知して人間を見つけ出します。葛西博士の研究室では、ドライアイス(固体の二酸化炭素)だけで効果的に蚊を捕獲できることが実証されています。運動後に蚊に刺されやすくなるのは、汗の臭いよりも激しい呼吸による二酸化炭素の大量放出が主な原因なのです。
服装の色選びも重要な要素です。 葛西博士の実験により、蚊の誘引効果は色によって大きく異なることが判明しています。最も蚊を引き寄せるのは黒色で、次いで赤、緑、青系の順となり、肌色や白色が最も蚊を寄せ付けにくいことがわかっています。研究者たちは実際に、黒いズボンで下半身に蚊を誘引し、白い帽子で上半身への飛来を防ぐという手法を採用しています。
体温の影響も見逃せません。 わずかな体温の違いでも蚊の誘引性は変化し、特に赤ちゃんや妊婦さんは通常より体温が高いため、刺されやすくなる傾向があります。運動後の体温上昇も同様の効果をもたらします。
興味深いことに、近年の猛暑により「蚊が少なくなった」と感じる人が多いですが、葛西博士によると、これは蚊の個体数が減少したのではなく、直射日光を嫌う蚊が昼間は木陰や草むらに隠れているだけだと説明されています。実際、最高気温35度を超える日でも、適切な調査方法により多くの蚊が捕獲されています。蚊の活動適温は28度程度までとされており、夜間の気温がこれを下回れば活発に活動を再開します。
まとめ
葛西真治博士が発見したスーパー耐性蚊は、従来の常識を覆す脅威として、今後の感染症対策における重要な課題となっています。通常の1000倍もの殺虫剤耐性を持つこの蚊の出現は、単なる害虫問題を超えて、人類の健康と安全に直結する深刻な問題です。
地球温暖化の進行により、日本へのネッタイシマカ定着リスクは確実に高まっています。東京の1月平均気温がわずか3度上昇するだけで、関東地方までその分布域が拡大する可能性があり、既に南米では温帯適応型の個体も確認されています。
しかし、ボルバキア細菌を利用した革新的な生物学的防除法など、新たな対策技術も開発されており、世界各地での実証実験で成果を上げています。同時に、個人レベルでできる効果的な防蚊対策も科学的に解明されており、二酸化炭素の放出量を抑え、白い服装を心がけることで、蚊に刺されるリスクを大幅に減らすことができます。
葛西博士が番組で語った「少年の飽くなき好奇心」という研究への姿勢は、このような人類の脅威に立ち向かう科学者の原動力そのものです。スーパー耐性蚊という新たな挑戦に対して、科学の力と個人の実践的対策を組み合わせることで、私たちは確実にこの脅威に対処していくことができるでしょう。
※本記事は、2025年8月13日にBSテレ東で放送された「いまからサイエンス」を参照しています。
※国立感染症研究所昆虫医科学部のHPはこちら
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